高取焼の歴史
朝鮮出兵の際、陶工八山(日本名:高取八蔵)を連れ帰り、黒田藩の御用窯として開窯したのが1602年とも1608年とも言われています。 現在の直方市永満寺宅間が第一の窯とされています。ここは10年前後で閉められ、1614年には10km弱北寄りの内ヶ礎の地に第二の窯が開かれました。 10年後帰国を願い出た八蔵親子は藩主の怒りをかい、山田市の小さな窯に移されました。6年経って1630年、藩主の怒りも解け 八蔵親子は飯塚市白旗山に第四の窯を持ち、時の伏見奉行・小堀遠州の許へ指導を受けに出されます。 当時第一の茶湯宗匠であった遠州の手が入ったことで作風は変わり、これ以後の作品は「遠州高取」と呼ばれるようになりました。 (遠州以前の宅間・内ヶ礎時代を「古高取」と言い分けます)第五の窯は小石原村鼓、第六の窯は福岡市と転々と窯を移していったことも 「高取焼」の大きな特徴で、その為現在では福岡県内の数ヶ所に「高取焼」が点在してあります。
ちなみに小倉藩の御用窯である「上野焼」の赤池町上野は、直方市永満寺に隣接しており、当時には何らかの交流があったものと考えられています。
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